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 000ヘリコプターレスキューに命を掛けた男…篠原秋彦  
   篠原秋彦、山岳遭難者の救出において担ぎ搬送から空輸への第一歩を記す。その名は山岳遭難救助の歴史を変えた。  
    ヘリコプターレスキューを本格的に手掛けたのは東邦航空株式会社だった。  
  アルプスの遭難現場出向きに、救助隊員としてヘリコプターから降下して救助活動を行い、これまでに、1,600件程の救助活動を行っている東邦航空株式会社は松本営業所(松本空港内)を拠点として、北・中央・南アルプスで発生する山岳遭難救助活動に大きく貢献している。
今でこそ当然のようにヘリを呼び救出してもらっているが、ヘリコプターレスキュー確立の陰に一人の男の壮絶な闘いがあったことを忘れてはいけない。
1972年9月、篠原は東邦航空株式会社に入社している。入社動機は 『山に登れる営業マン募集』 という小さな新聞広告だった。山が好きだったこと、好きな山で飯が食えること。ある意味純粋な動機だったのではないだろうか。ヘリコプターによる山での仕事は山小屋への物資輸送、山岳救助などが主と思われがちだが、それはほんの一部でしかないと言う。送電線架設や大型アンテナの設置工事やそのメンテナンスが主体で、当時はヘリによる山岳救助は行われていない時代だった。
 
   初めて穂高の空に舞ったのは 海上自衛隊 館山航空隊のヘリコプターだった。    
  1957年7月22日、前穂北尾根第V峰で岩登りの訓練をしていた大学の山岳部員が足を滑らせて30m落下。頭の骨を折る重症を負って涸沢ヒュッテにに担ぎ込まれる事故が発生した。救助要請を受けた長野県警本部は関東管区警察本部を通して海上自衛隊館山航空隊に出動を要請。これを受けて、海上自衛隊の大型ヘリS55機が涸沢へと向かっている。当時の模様を目撃した人の談話によると
 「そのころはまだヘリの性能が良くなくて涸沢の雪の斜面に不時着のような感じで着陸しました。
  そこに居合わせた人達で雪を平らにし、機内に搭載している機材を降ろし、同乗整備士も降ろし、遭難者一人を載せて涸沢カールを飛び立ったんです。おそらく涸沢にヘリが飛来したのはこの時が初めてではないでしょうか」
と供述している。
また、1957年7月25日の朝日新聞夕刊には、機長の談話が掲載されていた。
「とてもまともに着陸できるような場所ではなかった。着陸したところがすごく傾斜していて離陸できないので、そばにいた五十人ぐらいの登山者たちが手伝って雪を平らにしてくれた。どうにか飛び立ったものの山を離れるまでは全く自信がなかった。とにかく遭難者を連れて帰れたのはうれしい」
また、同日付けの毎日新聞朝刊には、
「このような救助のためヘリコプターが出動したのは、同年2月4日、電力会社黒部発電所工事現場で重傷を負った建設会社・火薬管理人・古田勝博氏(25)のために民間のヘリコプターが出動し、同君を病院に収容したことがあるが、穂高連峰では初めてである」
と書いてある。
 
   今からおよそ50年前頃から、山岳救助の一環をヘリコプターが担い始めていた。  
   山の遭難救助は昭和40年代になっても人力によって救出搬送が主流で、ヘリが出動するのはよっぼど条件に恵まれたとき、せいぜい年に10回ほどであった。当時はまだヘリによる遭難救助は特殊なものと考えら金額も掛かると言われていた時代であり、いざ遭難となれば、大勢の人間を動員して担ぎ下ろすのが当たり前とされていた。
もちろん、機体やパイロットの問題もあっただろう。自衛隊にしろ民間ヘリ会社にしろ、そのころは山岳飛行に向くヘリを配備していなかったし、激しく気流が変わる山岳地帯を飛べるだけの技術を持ったパイロットもまだ育っていなかったようだ。
 
  しかし、それでも年に2〜3件は、荷揚げのついでに病人やケガ人を下ろしてくれないかという要請が舞い込んできた。現場まで飛んでいって遭難者を救助するというのは無理でも、山小屋まで運んできたケガ人を下ろすぐらいなら、物輸のついでにできるだろうというわけである。このようにしてケガ人や病人、あるいは遺体を山小屋から下ろすようになったのが、そもそもの山岳レスキユーの始まりとなった。
これは東邦航空に限った話ではなく、山小屋の荷揚げを行なっていた他のヘリ会社も以前から行なっていたことである。
ただ、他社が人道的立場を鑑みて渋々行なっていたのに対し、積極的にケガ人を搬出しようとしたのが東邦航空の篠原であった。
「私はもともと山ヤでして、山が好きでこの道に入ったんです。だから遭難が発生してケガ人や死亡者が出たという一報が入ると、できるだけ早く下ろして家族や仲間に会わせてあげたいなあと思います。ただそれだけのことですよ」
篠原が、つまりは東邦航空のヘリが、初めて遭難現場へ出動したときのことを、涸沢ヒユツテの支配人は決して忘れない。同じく1974年の夏のことである。
その日の朝10時前、前穂高岳北尾根五・六のコルからふたりパーティの登山者が滑落したとの知らせが、一般登山者から潤沢ヒユツテにもたらされた。滑落したふたりのうち、ひとりは100mほど下のシユルンドの中に突っ込んでいき、もうひとりははるか下方へ転がり落ちていったという。知らせを受けた山口は、ただちに警察に一報を入れるとともに、とるものもとりあえず、従業員二人を連れて現場へと向かった。
この時の遭難救助がきっかけで山口は、篠原と名コンビを組んで遭難現場の修羅場をいくつも踏むことになる。山小屋の従業員として何度も遭難現場へ赴いて救助活動を行なってきた山口の技量を、篠原は高く評価し、レスキユーのパートナーとして誰よりも信頼を置いていた。
 
 
 
   長野県警にベル222型ヘリコプター、通称「やまびこ」が導入されたのは1981年のことだった。  
  東邦航空のパイロットは、山岳飛行の技術については申し分なかったし、山小屋の荷揚げに関してはたしかに積極的に飛んでいた。しかし、それがレスキューとなるとまた話は別だった。パイロットや整備士に篠原ほどの山への思い入れがあるわけではなく、突発的に飛び込んでくる救助要請はあくまで仕事外の作業だったからだ。
通常、山岳遭難事故が発生した場合、その一報は所轄警察著に届けられる。所轄警察署では、現場の状況や遭難者の負傷の程度などに応じて、どのような方法で救助するのが最善か県警のヘリを使うのか、民間のヘリ会社に依頼するのか、あるいは救助隊を組織して人力で担ぎ下ろすのかなどについて検討し、決定に従って救助活動が展開されることになる。
 
    当時、長野県警ではまだ県警所有のヘリが導入されておらず、ヘリによる救助を行なうとすれば、民間ヘリ会社に依頼するしか手はなかった。長野県警にベル222型ヘリコプター、通称「やまびこ」が導入されたのは1981年のことで、それまではもっぱら民間ヘリ会社!そのはとんどは東邦航空が山岳レスキユーに当たっていた。 しかし、篠原にしろパイロットにしろ、レスキユーに関するノウハウや技術はまったく持っていなかった。たしかに篠原は山というものを熟知していたし、パイロットは山岳飛行に長けてはいたが、それとレスキューとはまったくの別物であったはずである。では、彼らはいかにしてレスキュ−の技術やノウハウを会得したのか
「山登りだったら、まず縦走をやって、岩をやって、雪山をやってというように、徐々にステップアップしていけるけど、レスキユーの場合はそうじゃありませんからね。行ってみたらとんでもないところだったけど、やらざるをえないわけです。目の前にケガ人がいるんだから。もう、技術とか経験とかは二の次三の次でね。馬車馬みたいに、とにかく目の前にいるケガ人を引き上げる。そのための技術は、自分に身についている登山技術の応用です。人間ていうのは、集中すると実力の120パーセントのカが出るっていいますけど、すべての現場がその繰り返しですよ。ふだんからヘリを使った救助法の訓練なんてやっている時間も費用もなかったしね」 …と篠原は語る。
 
   東邦航空がレスキユーの仕事を歓迎しない大きな要因として、航空法の問題があった。  
  航空機の航行の安全を図るため、日本においては航空法によりさまざまな制約が設けられている。
たとえば山小屋の荷揚げを例にとると、まず事前に運輸省の航空局に「場外地申請(離着陸場許可申請」というものを提出してフライト許可をとることが必要となる。これは「いつ、どこからどこまで、どういう機体で、誰がパイロットで、荷揚げを行ないます」という申請で、さまざまな書類とともに現地ヘリポートの写真と図面を添付することが義務づけられている。しかし、ヘリポートの写真といっても、山の中のことだから車を飛ばして撮影してくるというわけにはいかず、必ず篠原が現地へ足を運び、写真を撮影して図面を引いていた。こうして資料をそろえるだけでも、数日はかかってしまう。なおかつ書類を提出して許可が下りるまでには三、四日を要した。
これが人員輸送となると規制はもっと厳しくなり、万一の場合の不時着場を一キロおきに設定しなければならず、やはり各場所の写真と図面が求められた。それでも安全面などの点でクレームがつくことがあるので、遅くとも半月以上前には申請を出すのがふつうであった。なおかつ実際に飛ぶというときにも、離着陸場所や飛行区域、飛行高度など、細部にまでわたる手伽足伽が科せられているのである。
もちろん、レスキューの場合には、正常の手続きを踏んでフライト許可をとるなどという悠長なことはしていられない。許可が下りるまで待っていたら、遭難者は十中八九、死んでしまう。そこで認められているのが航空法の適用除外だ。これは、航空法の79、80、81条で定められている制約を、
「運輸省令で定める航空機が航空機の事故、海難その他の事故に際し捜索又は救助のために行う航行については、適用しない」とするもので、同法81条の2で「捜索又は救助のための特例」として定められている。
ところが、ここでいう「運輸省令で定める航空機」とは、警察や自衛隊のヘリであり、民間のヘリはこれに含まれない。要するに、警察の要請を受けて遭難者の救助に向かう場合でも、民間のヘリはきちんと航空法を守らなければいけませんというわけである。
それにもかかわらず、東邦航空のヘリがすぐに救助に向かえたのは、緊急を要する人命救助につき、事後許可を得るという形をとっていたからだ。遭難救助時、篠原たちが現場へ向かう一方で、東京の調布にある東邦航空の本社では、フライト許可を得るための資料をただちにそろえ、航空局に申請する作業を行なっていたのである。そんなときに資料がすぐそろえちれるようにと、穣原は何度かヘリを飛ばして、遭難事故が発生しそうな場所の写真を1000箇所近くも撮影したという。
のちの五六豪雪のときの大量遭難事故を契機に、それまでに実績を残してきた東邦航空の五人のパイロットについては、事前の飛行申請をしなくてもフライトできるという通達が下された。また、民間のヘリであっても、地方自治体の長が緊急として認めた場合に限り、航空法の適用を除外するという改正も成された。1993(平成五)年には東京航空局管内で、その翌年には大阪航空局管内において、ホイスト(ヘリから人間を地上に吊り降ろしたり、逆に地上から人間をヘリの機内に吊り上げたりするための装置)の山岳特定地域での使用が認可されるようになり、東邦航空は国内では唯一、山岳レスキュー活動が合法的に認められる民間ヘリ会社となった。
試行錯誤が繰り返されたレスキューのノウハウは、徐々に確立されつつあった。篠原にもパイロットにも、山岳レスキューのプロフェッショナルとしての自負が芽生えてきていた。ちょうどそんな時期に起こったのが、五六豪雪による大量遭難であった。
 
   
   ヘリレスキューを促進させたのは、五六豪雪による大量遭難であった。  
  1980(昭和55)年の年の瀬、強い寒気団と冬型気圧配置の影響を受けた日本海側の各地は、記録的な豪雪雪に見舞われた。
気象庁の観測によると、12月29日午後3時現在の積雪量は、富山県富山市で76センチ、新潟県上越市や山形県新庄市が89センチ、福島県会津若松市で86センチ。岐阜県高山市では、12月としては観潮史上最高の104センチを記録し、福井県福井市でも1917 (大正6)年の166センチに次ぐ115センチの積雪となっていた。
この大雪のため、北陸・上信越地方の鉄道網は軒並みマヒ状態となり、空の便も一部で欠航、多くの帰省客らに影響を及ぼした。また、福井県では雪の重みによる電線の切断で停電となる地区が続出。いくつかの町や村では鉄道や道路が不通となって完全に孤立してしまったはか、家屋が倒壊したり、生活圏で雪崩が起きたりするなどの被害も出た.。当時の消防白書よると最深積雪量は 新庄市 188cm 、山形市 113cm、上越市 251cm、 富山市 160cm、 高岡市 154cm、 高山市 128cm、 金沢125cm 、福井市 196cm、 敦賀市 198cm、 豊岡市 102cm となっており、死者 133人、 負傷者 2158人、行方不明者 19人、住宅全壊 165棟、住宅半壊 301棟、床下浸水 7365棟、床上浸水 732棟と膨大な被害を出していた。
そんなさなか、北アルプス・唐松岳を目指していた神奈川県の高校山岳部パーティ6人が、29日、八方尾根で消息を絶った。30、31の両日、ヘリコプターによる捜索が行なわれたものの発見には至らず、家族の了解を得て捜索はいったん打ち切り。八方尾根北側の南股入で、雪解け水に洗われていた彼らが発見されたのは、里はもう春真っ盛りの五月になってからのことだった。
高校山岳部の六人の進退を絶った年末の雪は、年が明けてからも降り止まず、急峻な中部山岳を極厚の白いベールですっぽりと包み込んだ。その峰々を目指して、1981(昭和56)年の正月もまた多くの登山者が各地にトレースを印していた。
登山口から高みへと向かう点々としたトレースは、降りしきる雪にやがてはかき消されていった。
が、その何本かのトレースが向かった先には、無垢なまでの白さの、しかし凍りつくほどに冷たい奈落が、高校山岳部パーティの6人を呑み込んだときのように、静かにひっそりと口を開けていたのだった。
正月の朝、5時30分、まだ夜が明け切らぬ暗闇のなかを、松本市内のホテルから車で松本空港へと向かう男の姿があった。
その年の冬、篠原が多忙を極めたのは言うまでも無い。
 
   篠原秋彦氏、突然の終焉   
   2002年1月6日、午前10時すぎ、北アルプス・鹿島槍ケ岳で遭難した4人から山岳会事務局を通じて県警に救助要請があり、県警は民間ヘリを手配した。東邦航空株式会社所属のヘリ、アエロスパシアルSA315BアルウェットIII(JA9826)は11時19分、松本空港を離陸し、パイロット1人と篠原氏と救助担当者1人の計3人が乗り込んで救助作業に向かった。当時は霧が出ており、視界は
約100mだったという。
午後1時ごろ、「長野県大町市の北アルプス・鹿島槍ヶ岳の東尾根一ノ沢の頭付近で、登山者4人をヘリコプターで救助していた篠原氏が怪我をした」と、ヘリから大町署に無線が入った。
1974年からヘリによる山岳遭難救助活動に携わってきたベテランであり、山岳遭難救助レスキューにおいて総合的な指揮がとれるコーディネータとして各方面から信頼を受け、多くの岳人の命を救ってきた篠原氏の身の上に突然魔の手が伸びた。

12時05分ごろ、北アルプス・鹿島槍ケ岳(2,889m)東尾根の一ノ沢ノ頭付近(約2000m)で、雪で身動きできなくなった北九州市の山岳会の男女4人のパーティーを救助中の南安曇郡穂高町有明、有限会社卜ーホーエアーレスキュー代表取締役、篠原秋彦氏(54)が、ヘリコプターからつリ下げた救助用ネットから落下、大町市内の病院に収容されたが、外傷性ショックで即死状態だった。長野県大町署は、ヘリで4人をネットでつり上げた時に大きく揺れ、ネットの外側につかまっていた篠原氏が手を滑らせるなどして落ちたとみている。と報じられている。
大町署の調べによると、長野県警から要請を受けて篠原氏が悪天候のわずかな好転をついて出動。午後零時半ごろから篠原氏はヘリから遭難現場に降り、機体からつり下げた3m四方の
 
  遠見尾根から見た鹿島槍ケ岳
  救助用ネットに4人を収容、篠原氏はこの後ヘリが離陸した際、ネットの外側にいて突風に見舞われたらしい。つり下げたままの状態で、直線距離で約3km離れた大町市大谷原のヘリポートに運んだが、   
  ヘリポート到着後、一緒に乗っているはずの篠原氏の姿がなく、片足の靴だけがカーゴフックから吊るされたネット内にあった。ヘリは約30分後に救出現場に戻リ、約10m離れた場所に篠原氏が雪の上で倒れているのを発見した。篠原氏は脊椎(せきつい)や左脚などを骨折していた。救助された4人は「ヘリが上昇し、ネットが地上から50cmほど浮いた際、2回大きく揺れた」また救助された女性は「気を失うくらいにネットが揺れた」と話している。ただ、事故当時、雪煙が舞っていたため視界が悪く、詳しい状況は分からないという。
幸いなことに遭難の4人は無事で、救出された4人は足に軽い凍傷を負っているだけであった。遭難した4人のパーティーは、12月31日に大町市大谷原から入山、2日に鹿島槍ケ岳に登頂、3日に大谷原に下山する予定だったが、大雪のため動けなくなり救助を求めていた。
長野県警によると、県内の山岳遭難で救助中に事故死したケースは、1993年8月、中央アルプスで当時の遭対協救助隊長が滑落死して以来のことであったと発表している。
 
この事故報告を受けた、国土交通省は、カーゴフックのネット内に遭難者を収容する救助方法を禁止する通達を出した。しかし遭難者をネットに収容したまま搬送するこの方法は1度に最大6人の救助実績があり、県内の山岳救助関係者からは「複数の遭難者がいる場合、ほかの方法では救助に時間がかかりすぎる」との声が出ている。航空事故調査委員会の報告書によれば、篠原氏は命綱をつけておらず、ネットが振られて雪壁にぶつかった衝撃で転落した。これを受け、同省航空局技術部運航課はカーゴフックによる人のつり上げ下げの禁止を通達。
ヘリで現場に着陸できない場合はホイスト(電動巻き上げウインチ)で機内に収容しなければならない。同省は「安全のために機内に収容するという原理原則を確認した。カーゴフックには安全の裏付けがなく、航空の安全を守る立場から禁止せざるを得ない」としている。これに対し、山岳救助関係者からは「命綱をしていればカーゴフック方式は危険でなく、迅速な救助のために必要ではないか」との声も出ている。
カーゴフックは機体の真下につり下げるためバランスがよく、素早く現場から離れられるという利点があった。最大重量は700Kg。ホイストは最大重量が160kgで飛行規定により1回でつり上げられる遭難者は1人。県警ヘリ「やまびこ」でも最大重量は約270kgで1度に2人しか吊り上げることができなかった。
転落、滑落などで遭難者が多く発生する山岳地形は急斜面であったり、岸壁であったり、雪面や雪壁であるだろう。このような条件下で、ホイストで収容するためのホバリングを長く続ければ、その風圧で落石や雪崩などによる二重遭難を誘発しかねないのではないだろうか。
カーゴフック方式はヨーロッパでは普通に使われている救助方法であり、国内でも篠原氏が確立したのに、凍結されたのはいかがなものだろうか。
山を愛し、山に生活の場を求めた一人の男は、山岳遭難救助という形で多くの人命を救い、ヨーロピアンスタイルに近い山岳救助の形を構築し、日本の山岳界に大きな功績を残して逝った。東邦航空が 『山に登れる営業マン募集』の新聞広告を掲載していなかったら、篠原氏が東邦航空株式会社に入社していなかったら、おそらくヘリコプターによる山岳遭難救助は大幅に遅れていたにちがいない。篠原氏の男気で切り拓かれたヘリコプターによる山岳遭難救助。篠原氏の救助活動の煽りを受けて行政機関がヘリコプターの導入を早めた傾向にあると言っても過言ではないだろう。今後中高年の登山者が増えていく中でヘリコプターによる山岳遭難救助はありがたいものである。
しかし、安易にその世話にならないためにも正しい登山技術、登山知識、充分な体力を持って、自己に見合った山行をするべきではないだろうか。

  中高年の安全登山を目標にし、山岳遭難救助をより多くの人にご理解いただくために 『羽根田 治著 空飛ぶ山岳救助隊―ヘリ・レスキューに命を懸ける男、篠原秋彦』を引用させていただきました。より詳しくは本編をご購読ください。